泉州豆知識
男里川物語①
 前号で泉州地域が豊かな伏流水に恵まれていることをお話ししましたが、なかでも泉南市と阪南市の市境を流れる男里川流域は『和泉の水』が豊富に存在する場所の一つです。  現在の川面は水流が細り、雑草が茂って見る影もありませんが、昭和27年の阪南市鳥取池の決壊による水害(南海男里川鉄橋の山手側左岸のカーブの部分が決壊)迄は、このカーブする堤防の内側は松の木が鬱蒼と生い茂る河川敷で、昼でも薄暗い松林の中に戦前に建てられた古い隔離病舎の残骸が残り子供達の肝だめしの絶好の場所となっていました。もちろん現在の国道26号線は未建設で阪南市斎場のあたりはあまり人の寄りつかない淋しい地域でした。男里川の東半分にはいつもきれいな水が流れ、南海男里川鉄橋の下のあたりから下流にかけて、いくつかの深い淵が点在し、子供達の飛び込みも出来る絶好の水遊びの場でした。
(おかあさんチョット2004年4月号掲載)

男里川物語②
 現在の男里川の河口は防波堤の連続と泉南市側はゴミ焼却場、また阪南市側は住宅団地にと開発されています。昭和30年頃の河口ではアサリ貝が一杯捕れ潮干狩りに多くの人で賑わいました。また、両岸は真白い砂浜が延々と、樽井海水浴場まで続き、阪南市側はこんもりと緑の松林が茂り、波止場(現存)が一本海につきだして、地引網でたくさんの魚が捕れたものです。
 しかし残念ながら、経済成長と共に河口は、一時期阪南市のし尿の捨て場となって、その悪臭で人も寄りつかない場所になりさがった時もありました。現在では漸く自然も取り戻し、大阪湾で唯一の自然の浜辺が残る、夕日のきれいな河口になっています。
(おかあさんチョット2004年5月号掲載)

男里川物語③ 和泉の"水(いずみ)"
 男里川流域は前述の通り『和泉の水』が伏流水(地下水)として豊富に存在する代表地域の一つです。特に南海線鉄橋付近の両岸には、倉敷レイヨンをはじめ製紙・染色・晒・紡績工場等が林立し、一時期、取水制限が持ち上がったほどでした。最近阪南市のし尿処理場建設候補地となり、反対運動のおこっている下出浄水場もこの区域に属し、戦後初めて建設された関電多奈川火力発電所のボイラー用水として、ここからはるばる給水されていたこともありました。
 その後の産業構造の変化で、この地域の地下水の利用企業が大幅に減ると共に、地球環境の変化から、地下水がコワイという一般的な傾向ですが、幸い男里川上流地域はよい自然環境が残り、良質の地下水がわずか2〜3mの深さの地下を現在も勢いよく流れています。創業250年、毎年酒蔵見学でおなじみの浪花酒造もこの和泉の水を利用して金賞に輝くおいしい酒造りに、又近くの尾崎スイミングスクールでも1980年の開校時から使用しているアルミプールやボイラーが、腐蝕せずに24年間も稼働しているという。いずれも自然の恵み「和泉の水」の水質の良さが実証された証ではないでしょうか。
(おかあさんチョット2004年6月号掲載)
男里川物語④ 昭和27年の堤防決壊
 泉州豆知識その三で前述のように、昭和27年7月に、大雨による鳥取池堰堤崩壊による男里川左岸の堤防決壊という大災害がありました。
 鳥取池は丁度、男里川上流の谷間に巾60〜70m、高さ19mの土堰堤でせき止められ、約20万トンを貯水する溜池として昭和23年に建設されていました。7月始めより降り続いた雨は10日から11日にかけて日降雨量403ミリを記録する大雨となり、ついに11日、深夜午前0時頃、鳥取池堰堤が崩壊、一気に流れ出た激流は桑畑地区で水位3mに達し、同地区を一瞬にしてのみ込み、続いて自然田・鳥取中地区から山中川・金熊寺川との合流点を経て水量を増して水魔と化し、ついに男里川南海鉄橋山手側右岸堤防(隔離病棟のあった所)の湾曲部に激突、決壊。流路にあった家屋を押し流すと共に尾崎町福島地区一帯を、水深1m以上も水没せしめ、桑畑・尾崎地区で行方不明者51名、流出家屋40戸以上という未曾有の大災害となりました。大阪湾沖に家と共に流され翌日救助された人もありました。
 現在、鳥取池は近代的な堰堤に改修され、桜並木のある公園になっています。
(おかあさんチョット2004年7月号掲載)
男里川物語⑤ 南海電車 男里川鉄橋より転落
昭和27年の堤防決壊についで男里川でおこった不幸な出来事の一つに南海電車が男里川鉄橋上より川床に転落するという日本の交通史上でも希にみる大事故がありました。
 昭和42年(1967年)4月1日午後7時25分頃、当時ではデラックスなロマンスシートの和歌山市行き急行(5両編成)が男里川鉄橋北側20mの樽井9号踏切(無番警報機付き)でエンストをおこして立ち往生していた大型トラックに衝突。電車は鉄橋上をトラックを引きずったまま、前部1・2両が脱線、約5m下の河原に折り重なって転落、3両目も半ば傾いて脱線、2両目の後部にひっかかって宙づりのままやっと止まるという目を覆う大惨事となりました。土曜日の夕刻のため幸い通勤客は少なかったのですが、当日入学式をすませた子供のお祝いに行く父親の死、また、宝塚への春の行楽帰りの家族11人の内、母子2人死亡、他の9人全員重軽傷という悲しいエピソードを含めた、全乗客数350人中死亡5人、重傷81人、軽傷119人という不幸な結果となりました。
 幸い右岸側の本流をはずれ、左側川原に落ちたため水による二重事故は避けられましたが、真暗な転落車両内で母子の泣き叫ぶ声、列車にはさまれた乗客の呻き声、傾いた列車の窓からぶら下る負傷者の姿など当時の新聞はその惨事の凄さを暗ヤミ地獄と伝えています。
(おかあさんチョット2004年8月号掲載)

男里川物語⑥ 南海電車 男里川鉄橋より転落 2
 昭和43年4月1日におこった南海電車の男里川への転落事故。高度成長以前の泉州路は、まだまだのどかな田園風景を残す静かな町でした。そこに降って湧いたような突発の大事故。病院や消防署の緊急時の受入体制や道路事情もおそまつだった当時の泉州地域にとって虚をつかれた格好で、死者5人重軽傷者200人という状況に泉佐野、貝塚、岸和田に救急の応援を求め、遠く和歌山や大阪市内の病院にまで負傷者を収容するという、てんやわんやの状況でした。
 その中で、当時現場近くにあった尾崎製紙、成光板紙工場の従業員の方々のすばやい救助活動が翌日の新聞で紹介され話題を呼びました。鉄橋からの列車転落という未曽有の大事故に、中央政府の高官が現場視察に来る程で、運命のいたずらか偶然にも列車の3両目に、運転手の奥さんと3才のお子さんが乗り合わせ、夫婦共重傷を負い泉南病院に入院するというエピソードもありました。
 南海電鉄では、この事故と前後して、箱作駅、粉浜駅とたて続けに列車が側線に進入するというポイント事故を連発し、当時の鉄道の安全装置の不備を露呈した格好でしたが、鉄道運営にとって一番大切な安全装置(踏切施設等)整備が優先し、以後の沿線開発が遅れたと聞いています。
 事故後の踏切は、すぐに立体化され、車通行の多くなった現在は安全な踏切として供用されています。
(おかあさんチョット2004年10月号掲載)

男里川物語最終回 河口に残る自然の干潟
 すでに男里川物語(その2)でお伝えしましたが、かつての男里川河口の両サイド(北側は泉南市、南側は阪南市)の海岸線は防風林としての緑の松林が連綿として続いており、波打ち際に向かって真白い砂浜がなだらかな斜面を描いていました。 そこには手漕ぎの漁船が所々に引き上げられ、特に河口一帯は遠浅で、シーズンともなると、潮干狩りで賑わい、磯の香りが漂う、まさに日本の海岸の原風景そのものでした。
 現在は樽井側にはゴミ焼却場、阪南市側には住宅地、海岸線はコンクリートの防波堤が無造作に連なっていますが、そんな中、まことに幸運なことに、男里川河口にだけ、白い波のうち寄せる波打ち際のある自然の干潟が残っています。時には、白鷺が群れをなして水辺に足をつけて休息している光景は、一服の日本画を見るようです。そこに真っ赤な夕陽が沈み、夕焼けが加わると、思わず『最高』と声が弾み出る海岸美が展開されます。
 男里川流域には、和泉山脈より流れ出る、良質で豊富な伏流水(地下水)と共に大阪で唯一残された天然の干潟が広がっているのです。環境保全が叫ばれる今日、かけがえのないこのふたつの自然の贈り物を、永久に次世代に残してゆくことが私達の努めではないでしょうか?
(おかあさんチョット2004年11月号掲載)